告別


トランの古城は、湖の中に忽然と浮いているような奇景で知られている。かつては、共和国建国の礎となった解放軍組織の中枢が置かれていた場所でもある。
今は記念碑的な役割を担わされて、ただ静かに湖面にその影を映している。
…筈だった。数日前までは。
赤月帝国の、特に末期の腐敗した軍政官制度は、湖上の物流を著しく制限していた。それはつまり、地方の役人たちへの利権が損なわれないように、徹底した流通管理が行われていたためであり、自由な物流を妨げるために、新しい港の建設もほとんど認められていなかった。とりわけ、帝都グレッグミンスター周辺は、首都防衛という意味もあって、舟を使った物品の往来には非常に不便だったのである。
これは、地理的条件とも相俟っているので、共和制が導入されてからも速やかに改善されるというわけにはいかなかった。
共和国成立当時から、舟を使った大量輸送を目論んでいた船商人アンジーは、ついに先日、堪忍袋の緒を切らせ、首都の共和国政府高官に直談判をしに行った。そして、半ば無理矢理にトラン湖の古城を一時開放させ、船団の基地として使用することを認めさせたのであった。これによって、トラン湖の古城=カク=クワバの関=レナンカンプ=グレッグミンスターという通商路を仮に開くことになったのである。
こうして、数日前から、この古城の港には数え切れないほどの商船が付けられているのだった。以前将兵たちが寝泊まりしていた施設は、湖上輸送に携わるものたちに仮の宿として解放されていた。
 
 

懐かしい匂いだ、とシドニアは思った。湖水の匂いだろうか、それとも城を造る石の匂いだろうか。
身体が酷く怠い。腕を上げるのも億劫なほど疲れているのに、頭の一部が不自然に冴えていて、眠れなかった。まぶたを押さえても、目の奥で火花が散っているようだ。
隣から、静かないびきの混じった寝息が聞こえて来る。ほっとするような、それでいて落ち着かない気分になって、寝返りを打つと、体の中をどろりとした不快感が伝わり、きつく眉を寄せた。
何度経験しても慣れない不快感だ。抱かれるのも、奥に放たれるのも決して嫌いではなかったが、これだけはいつまで経っても好きにはなれなかった。身体中の筋肉を緊張させて、それが去るのを待つ。
ゆっくりと息を吐いて、顔を敷布に伏せた。
ふと気づくと、隣の寝息が止まっていた。徐に顔を上げると、今しがたまで眠っていた男の生真面目な視線がこちらを向いていた。一瞬、息を止めて、すぐによそいきの表情を作ろうとしたが、ちょうどその時またあの不快感がやってきて、こわばったまま壊れたような表情になる。誤魔化しようがなくなって、顔をまた伏せた。
「どうした?」
柔らかすぎて腹が立つほどの声が聞こえてくる。
いっそ、この関係を粉々にしてやりたくなる。荒々しい破壊衝動が全身を突き上げるように湧いた。
「シドニア…?」
握りしめた手のひらを解きながら、再び顔を上げた。見慣れた、暖かい色をした瞳とぶつかる。
「なんでもない…」
言っても無意味だ、と思いながらも、そう言った。
案の定、相手はこれっぽっちも今の返事を受け止めずに、気遣わしげに背中に手のひらを載せてきた。言った事を受け止めない相手ならまだやりやすかった。だが、この相手は、彼が言った言葉をいろいろ深読みしてくる。言いたくないことまで言わせようとする。
「なんでもない」
無駄な言葉だと思いつつ、つぶやいてみた。
「俺がいやなら、そう言ってくれよ」
「違う」
とっさに声が出た。言ってしまってから、しまった、と思った。
相手の安堵の表情を見るのが嫌で、寝返りを打って背中を向けた。
その背中を包み込むように、相手が身をもたせかけてくる。
「にやにや笑ってるんじゃねえ」
振り向かずにそう言った。
「なんで、笑ってるって、わかるんだよ」
髪に顔を埋めているらしい、ややくぐもった声が響く。
黙っていると、相手の指先が体の上を滑った。荒れた指先がちくちくした感触を残していく。
「お前さ、そういうことを察するのは変に鋭いんだよな。俺の気持ちは全然伝わらねえのに」
「なにが」
「お前のこと、こんなに大事に思ってるのによ…」
シドニアが、かすかに笑うのが、唇を擦る息の音でわかった。
「笑うなよ。本当に、いっつも、お前のこと思ってるんだぜ?」
冗談と言っても通りそうな、軽い口調がかえって愛おしかった。
「嘘つけ」
「嘘じゃねえって!信じろっつうの!」
「信じたくない」
心から、そう言った。信じるのは、昔から苦手だった。
「………この、臆病者め」
「なに?」
振り向いて睨むと、アンジーがくすくす笑いながら顔を近づけてきた。
「お前だけだから」
柔らかに触れる合間に、言葉を紡ぐ唇を、疎ましいと思う。ありふれた、重みのこれっぱかりも無い台詞なのに、どうしてこの男が言うとこんなに痛むのだろう。逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。
「何があっても、どこへ行っても、絶対お前のところに帰ってくるから」
「馬鹿」
痛い、でも何が痛いのかわからず、身を捩る。
「信じろ…」
荒い指先が肌を圧してくるのを感じ、シドニアはきつく目を閉じた。
奈落に似ていると思った。この世で最も甘い、奈落。
そこに陥ることだけを恐れていたのに、もう逃げられないのだな、と頭の片隅で微かに思った。








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