テトラアンジーは、約束の時間よりも少々早く待ち合わせの場所についていた。
明るいうちにこの道を通ったことがなかったから、距離感が掴めていなかったのだろう。仕事場から歩いて、思ったよりも時間がかからなかった。
シドニアは定刻通りにくるだろうか。彼は時間にルーズなところがある。
遅れないために仕事を少し残してきたアンジーには、時間が勿体無く感じられた。
昨晩、急に思い立ってシドニアに同居を提案したのは、これ以上シドニアとの間に距離を置きたくないと考えたからだった。
戦争が終わっても、シドニアはそれ以前と何も変わらない様子だった。新しい仕事に就くわけでもなく、かといって戦前の仕事に戻るでもなく、ただ意味もなくぶらぶらとしていたように思う。
とはいえ周りの状況は変わっていくわけで、かつての仲間も去り(その多くが共和国に身を置いた)、シドニアは一人になった。
「これは丁度良い機会だ」と思った。
シドニアを誘えばついて来るだろうというのは、なかば確信に近いものがあった。
まさか普段の彼を監視しているわけではなかったが、彼はだいたい、眠るところがあればそこを転々とするような生活をしているのだと予想がついていた。そうでなければ、働き(彼の場合盗みも仕事の一つに入る)もせず食っていける訳が無いのだ。
それなら自分のところにおいてやっても良い、と思った。・・多少奢っているという自覚はあったが、そんなことは大した問題だとは思わなかった。シドニアが安定した生活をおくることができて、しかも自分のそばにいたなら楽しいだろうなと、そんな風に考えただけだ。
ただアンジーはそういった甘ったるい話をするのが得意ではない方だったので、軽い調子でうそぶくようにうちに来ないか、とシドニアを誘ってみた。シドニアは、同じくらい軽い調子で肯いた。
普段はここにいる―とシドニアが示したアパートの、階段に一歩のぼった所でアンジーは入ったことを後悔し始めていた。こんなところでどんな生活をしているのだろうかと、少々焦る。結局シドニアはここに住んでいるわけではなく、住みついているわけだ。しかし人間の住む場所だとは思えない。彼ほど実力があればもっと―つまり彼には充分金になるだけの才能があるにもかかわらずこの有り様はないだろう、と思った。
ざっと中を回ってみたが、ほとんど廃屋に近くて、ドアが開きそうな部屋は一つしかなかった。必然的に、シドニアはこのドアの向こうにいるのだろうと想像する。アンジーは、ドアをノックしてみた。返事はない。
少し間を置いて、もう一度ノックしてみた。何か、中で動いた気配がした。
罪悪感もあったが好奇心もあり―アンジーはドアノブに手をかける。あってもなくても同じようなドアは鍵などかかっている筈もなく、ただ軋んだ音を立ててドアは開いた。
「シドニア?」
呼びかけるが、また返事がない。中を覗くと、散らかった部屋の隅にベッドが置いてあり、シドニアはそこにいた。
上体だけ起こして、アンジーと視線が合うと酷く驚いたような顔をした。
何かあったのかと尋ねようとした時、ベッドのシーツに隠れていたがシドニアの横にもう一人男がいるのがようやく分かった。その人影が体を起こす前に、アンジーは反射的に謝ってドアを閉めた。
動悸がする。ドアに背をつけて立っていると、中から何か怒鳴るような声が聞こえ、続いて物が倒れる音がした。いつもの頭痛の種・・。
アンジーは階段を駆け下りた。シドニアが部屋から降りてくるまで半刻ほどかかった。つまり、定刻通りだ。
「遠いのか?」
シドニアが聞いた。
頬に黒ずんだ痣がある。少し笑っているようだった。
「そんなに」
そう短く答えて、アンジーはシドニアの顔から視線を逸らした。
アンジーの部屋は、感覚的にいえば例えば止まった時計のような、そういう静かな空間だった。
「アンジー」
「悪ぃな、散らかってて」
アンジーは土足でその辺りの本や荷物を除けたりしながら、シドニアに部屋の奥へついて来るよう促した。シドニアは、拾ってきた猫が最初警戒するように、ほんの少しだが恐る恐るといった様子で部屋へ入って来た。
独身専用の下宿のようなアパートの一室である、けして広いわけではない。二人で住むには狭いかもしれない。玄関から続いて、洗面所があり、あとは五メートル×五メートル程度の小部屋があるだけだ。しかも部屋には物が散らかっていて、それも異常に生活感のない散らかり方で、わき目に散乱しているものは本や資料や地図など、仕事道具が多い。家具は、背の低いベッドと木の机と服をほうり込む籠をそれぞれ部屋の隅にごんごんと無造作に置いているだけで、他の生活用品は何も置いていない。
シドニアが立ち止まって壁を見つめているので、その視線の先を辿ってみると、壁の時計が止まっていることに気がついた。いつからだろう、最後に部屋を出た時には気がついていなかった。そんな要素も含めて、人が住む空間としては、他人の目からすればさぞかし殺風景だろうなとアンジーは思ったが、シドニアに限ってそんなことを考えるようには思えなかった。
だがシドニアは、アンジーの思惑に反して、部屋に入るなり「ここがお前の部屋か?」と呟いて首を傾げた。
・・彼にはテレパスのような能力があるのではないかと時々本気で思う。何だか動物的だ。
「何もねぇと思っただろ。あんまり帰ってねえからなァ」
言いながら、手荷物を机の横に置いて、すぐに広げて書物を取り出すと、机に向かって腰掛けた。
「すぐ終わらせるから、大人しく待ってろよ?」
部屋の真ん中にぼんやりと立っているシドニアにそう指図した。シドニアの返事は待たずに、紙面に向かう。
自分でも随分余裕のない行動だと思ったが、仕事を中途半端に放っておくのはどうしても苦手なのだった。シドニアがその辺りの意志を汲んでくれるかどうかなど見当もつかないのだが、とりあえず、彼は「待て」と言えばいつまででも待っていてくれる。それに甘えて今は手元の仕事をさっさと片づけてしまおうと思っていた。
紙面に書かれている内容は今取り扱っている貿易の報告などだ。アンジーの仕事は船を使った貿易商で、実際労働する時間は別として、デスクワークは一切合切をアンジーが一人で取り仕切っている。
配下には、シドニアのように読み書きも出来ない人間も多い。だがそうだからといって、全ての頭脳労働を一人でこなさねばならないほど人員不足だという訳でもない。
ただ何となく、としか言いようがない。何となく、他人に肝心な仕事を任せるのが嫌いなのだ。だから多少の無理をしてでも仕事を離れたくなかった。そんな自分を、シドニアは妙にゆったりした目で見ている。
ただ、シドニアが待ちの性格だからといって、何事も干渉されずに済んでいるのかといえばそうでもない。彼は気まぐれなのか、あまり状況を飲み込んでいないのか、大人しいときは大人しくしてくれているのだが、たまに、どんなに忙しい時でも急に接触してくることがあって、それには少々手を焼いている。
「アンジー」
狙い澄ましたかのように、重要な文章を書いている最中にかかる呼び声。
アンジーはほらみろ、と心の中で呟いた。
「何だよ」
「これ」
「『どれ』だよ?」
アンジーはようやく手を止めて顔を上げた。
同時に、頭の中でまとまりかけていた文章が蜘蛛の子を散らすようにバラバラになる。
シドニアはいつの間にか机の前に立っていた。机の上の、コップほどの大きさの瓶を細い指で指差している。
「ああ、魚」
水を張り、コルクでしっかり蓋をした瓶の中には、小さな魚がじっと潜っている。
半年ほど前に戯れに買った、暖流で育ったらしい深く鮮やかな青色の鱗を持つ魚だ。
「奇麗だろ、そいつ、手ぇかかんねえんだ」
瓶に目をやると、向こう側から水中を覗くシドニアの瞳が見えた。
その瞳が自分を写していないようだったので、アンジーはまたすぐ紙面に向き合った。
「・・死んでるのか?」
シドニアがぽつりと呟く。
「生きてるよ、死んでるみたいだろ」
その魚は、外部から刺激を加えないと滅多に動かない性質を持っていて、一見すると確かに死んでいるようにも見える。
しばらくしてコツン、と音がした。シドニアが爪の先で瓶を突ついたようだった。本当に生きているのかどうか確認したのだろう。シドニアの癖だ。
「・・もうすぐ終わるから、待ってろ」
そう呟くと、シドニアが笑った気配がした。
「青が好きだな」
シドニアがそう言って、そしてまたコツン、と音がした。少し強すぎるような音だった。魚が驚いたのでは?アンジーは一瞬気にかけたが、シドニアの関心がよそに向いているうちにとも思って、またすぐ仕事に意識を戻した。
シドニアの低い声が、耳元で名前を呼ぶ。
「・・何」
悪い心地はしなかったが、何分体が疲れていた。枕に顔を埋めたままくぐもった声で応答する。頭は鉛を打ち込んだように重く、下半身がだるくて起き上がる気にもなれなかったというのに、シドニアはさしてこたえた様子はなかった。アンジーの横で寝返りを打って、上体を起こし机の方を見ている。
「あれは、蓋を閉めたままでいいのか」
シドニアの「あれ」が魚の瓶を指すことに、視線を追うまでもなく理解できた。回転の鈍い頭でいきなり何を言い出すのだろうかと考えつつ、たまに開けてやりゃ大丈夫だよ、と答えた。
すると、シドニアは振り向いて小さく首を傾げた。
「・・『でも窒息しそう』だとか思ってるカオだね、シドニア君」
そう言ってシドニアの鼻を摘む。シドニアはとても不愉快そうな顔をして、すぐさま首を振って身を引いた。その体を無理に抱き寄せ、額にキスを落とす。
シドニアの額が好きだ。いつでも微妙に緊張していて、ともすれば始終眉間にしわを寄せていそうな、そういうところが好きなのだ。
シドニアはアンジーの頬に手を触れた。その手は妙に冷たく、アンジーが目を閉じると深く口付けしてきた。
・・シドニアは、キスが巧い。見かけに依らず執拗なやり方をするんだな、と初めてキスした時思ったのを覚えている。よく思えば快感で、悪く思えば商売女を相手にしているようで少し心地が悪いくらいのレベル。
唇を離すと、シドニアはふぅっと小さく息を洩らした。
「アンジー・・」
シドニアの低く掠れた声は神経を痺れさせるような響きがある気がする。体の芯が疼くような感覚を覚えて、衝動的にシドニアを腕の下に組み敷いた。
「・・もっかい、しよ」
シドニアの首筋に顔を埋め、耳元に言う。シドニアは返事をしない代わり、巧妙に腰を擦り付けてくるような真似をした。
シドニアの体を撫でると、女とは比べ物にならない、ごつごつとした骨の感触が手に触れる。
「お前、体温低いよな」
今更だと思いつつ、そんな感想を口に出した。
「それが?」
「なんか、クヤシイ・・」
乱してやりたくなる、と考えて、あまりに月並みなその自分の台詞に苦笑した。
まあ口に出さなくとも大体意味は通じていたらしい、シドニアは謎めいた笑みを浮かべた。そういう表情だけ見ていると、6つも年下の男を相手にしているようには思えないのが正直な感想で、それがまた、一段と悔しい。
シドニアの足を開かせて、体を割って入れた。シドニアが身動ぎしようとしたのを上から力任せに押さえつける。
・・すると、シドニアは一瞬目を見開いて硬直する・・その反応を分かっていながら試す自分は、ひょっとしたらサディストの素質でもあったのかもしれないなとアンジーは思った。シドニアの表情に気づかなかった振りをして、胸に唇を落とす。シドニアも、何事もなかったかのように平然と(・・平然と?)掠れた声を洩らした。
「きもちいい、アンジー」
子供のように舌っ足らずな発音で、シドニアが言った。ちゅ、と音を立てて吸ってやると、心地良くてたまらないという風に体を揺らす。わざとなのか知らないが、アンジーの腰の辺りを舐めるように擦るのを忘れない。
言葉にすればシドニアは「淫乱」だと思った。良くも悪くも、彼とのセックスは最高の快楽を得ることが出来る。
「シドニア、俺のこと好き?」
シドニアのそれに指先を絡めながら、シドニアに尋ねた。浮ついたことを言っているという自覚はあった。シドニアが巧くかわしてくれますように、などと虫の良いことも考えた。
シドニアは、焦燥した声で何、と小さく呟いた。
「俺のこと好きか?」
顔を近づけて囁くと、切なそうに喘いでいた表情に嘲笑めいた笑みを湛える。
そして彼は「大丈夫」と答えた。「で、上から二番目の引き出しに餌が入ってっから」
気だるい体にようやく意識が戻って来た。ベッドにうつ伏せに倒れ込むような姿勢で寝ていたアンジーはうとうとと目を開けたが、まだ瞼が重く、僅かに眉を顰めてからまた目を閉じた。緩慢に寝返りを打ち、「そういえば家で寝るの久しぶりだ」という感想を持った。それから、もう一度寝返りを打って、その時横に人の気配が無いのに気付く。胸が鳴った。
目を開いて飛び起きる。・・すると、背を向けてベッドの端に座っていたシドニアが驚いて振り向いた。
「・・あっ、オハヨウ・・」
シドニアが振り向いた瞬間、何か違和感のようなものを覚えたのだが、それでも存在を確認できただけで意識は冷静になった。不自然に上体を起こした姿勢のまま、誤魔化すような笑顔を浮かべる。それを見たシドニアは、おかしそうな、嘲笑のような、中途半端な笑みを返してきた。
「いっやー、逃げられたのかと思ってビックリしちゃいました」
今のは冗談だよ、とでもいうように言って、シドニアを背後から抱きすくめた。視線を合わせているには少々ばつが悪かった。
小さな背中の鮮やかな入れ墨に口付けをする。シドニアは服も着ずに煙草を吸っていて、視線はおそらく机の上の瓶の方に向けられていた。どれくらいそうしていたのか、体がひどく冷えている。
シドニアの肩に顎を乗せると、柔らかい髪が頬をくすぐった。慣れた匂いだと思ったら、シドニアが勝手に自分の煙草を拝借していたのが分かった。相変わらず手癖が悪いなと苦笑混じりに呟いたが、けして不愉快なわけではない。
シドニアが煙を吸い込むたびに、薄い胸が上下するのを腕の中で感じる。・・煙草?
「お前煙草吸ったっけ?」
「ん・・いや、あんまり」
「だよな。や、別に良いんだけどよ」
そうか、あの違和感・・目を覚ました時、振り向いたシドニアの姿を見知らぬ人にでも出会ったような、そういう違和感を感じたのは、彼が煙草を吸う動作を見慣れていないせいだったのだ。
そうと分かると、酷く安心感を覚えた。
外はまだ暗い。何時頃なのだろうか、時計が止まっているからよく分からない。
「・・重い」
シドニアが苦しそうに呟いた。面白がって余計べったりと寄りかかってみると、シドニアは身動きしようと何度かもがいたが、アンジーが離さないのをみて観念したのかやがて大人しくなった。
直接肌を重ねていると、いつになったらこの体は温まるのだろうかという考えが頭を過ぎる。
シドニアの体は何故かいつでもどうしようもなく冷たい。
(・・いや、本当のところ理由は大体見当がついているのだがそれはあまりに恐ろしい現実なので考えたくない)熱を奪われるのが心地良くて、アンジーはしばらくじっと目を閉じていた。
どれくらいかしてアンジーがようやく顔を上げると、シドニアの視線が下を向いていることに気がついた。何の気無しにその視線の先を追ってみてぎょっとする。シドニアの素足には灰の固まりが点々と落ちていた。
「バカ、何してんだ」
慌てて立ち上がり、シドニアの肌の上の灰を払って、もうすぐ指先を焦がしそうな短い煙草を取り上げる。シドニアは座ったままアンジーの挙動をぼんやりと見つめていたようだった。足を軽く火傷しているくせに、何事もなかったようにすました顔で。
「何してんだよ」
改まって言うと、シドニアはのろのろとした口調で答えた。
「お前が抱きついてくるから、動けなくて」
「あのなぁ・・ ・・『灰が落ちそうだ』とか口で言えよ、口で」
呆れた顔で首を振り、シドニアの細い顎を掴んだ。
「このおクチはキスしか出来ねぇのかな?コラ」
「出来ない」
そう答えてシドニアが唇の端で笑い、顔を寄せて来た。右手でアンジーの内股を撫でるような真似をする。
「・・駄目だ」
シドニアの手を止めてアンジーが言った。シドニアは不思議そうな顔をして一旦引く。
「なんで」
「なんでもかんでも、お前」
疲れてる、なんて言葉を出し渋っていたら、シドニアが笑った唇の間からちらりと舌を覗かせた。
「咥えてやろうか?」
「いや、いいよ」
顔の前で手を振ってやると、つまらなそうにそっぽを向く。拗ねたようなその横顔に、ごめん、と言葉を投げた。
シドニアは横目でアンジーを見た。切れ長の目がきろりと動く。
「キスとフェラチオしか出来ない口なのに」
と、シドニアが嘲笑めいた表情で言った。
「何で使わない、勿体無い」
「・・馬鹿言うな」
自分でも嫌になるくらい真剣な声が出た。アンジーはちっと舌打ちをし、それから、シドニア、と言い、鼻先が触れるくらい顔を近づけて、シドニアの目をじっと見た。
「二度とそういうこと言うんじゃねぇぞ」
頭の隅ではシドニア相手に説教もないだろうと思っていたが、言葉が止まらなかった。
半ば睨み付けられるような形になり、シドニアは一度張り付いた笑みを消したが、またすぐに唇の端を吊り上がらせた。アンジーがこの手の話題を得意としないことを多分分かっているのだろう、わざと唇を尖らせて、何かをしゃぶるような真似をして見せる。
「お前な」
少し恥ずかしそうな顔をして、アンジーはシドニアの鼻を指で軽く弾いた。シドニアは短く、声を上げて笑った。
「いつやる?」
「・・そう略さずに『いつ餌やる』ってゆえよ、ちゃんと・・。ま、気が向いた時で良いからよ」
シドニアはアンジーのシャツだけ肩に引っかけて、飽きもせず、また魚の入った瓶を眺めていた。(いつも思うのだが、彼は「飽きる」とか「懲りる」とかいうことを知らないのだろうか)
その横で服を着替え、アンジーは窓の外を見た。カーテン越しに、東日が明るい。まだ早朝と言ったところだ。
昨夜遊びすぎた疲れが残っていないわけではなかったし、何よりまだシドニアの側にいたかったのだが、どうしても外せない取り引きの予定があった。これが片付けばだいぶ暇になるから、と言ってみたが、シドニアは魚の方に熱中しているのか、返事もよこさなければ振り向きもしなかった。
シドニアの背中を見て、あの魚を飼っていて良かったな、と思った。最初はあまりに色気のないこの部屋に何か彩りが欲しくて、生花などよりもよほど手のかからない種類の動物を選んでみただけだった。この魚は美しく、物も言わなければ餌も時々やる程度で良く、手の平大の瓶に入れておくだけで良かったから、忙しい時でも構わなかった。それくらいの存在だった。自分の好きな青色を美しいとは思うが、大して気にかけて育てていたわけではない。だがそんな魚でもシドニアが気に入ったというのなら幸いだ。
「そいつさ、名前」
アンジーにしよう、だとか言ったらうけるだろうか、そんなことを考えていたら、不意にシドニアが瓶に手を伸ばした。片手で瓶を固定し、コルクを掴む。どうやら蓋を開けようとしているようだった。
「ああ、待て待て。駄目なんだよ、それ」
コートを羽織りながら、シドニアを呼び止める。シドニアは素直に手を引っ込めて、ようやく振り向いた。
「なンか飛び跳ねるらしいんだ、その魚。蓋しとかねぇとホラ、外に飛び出しちまって死んだら、嫌だろ」
そんな風に説明してやると、シドニアは何も答えず、視線は瓶に戻して何かを考えこんだようだった。
着替えを終えると、鞄に必要な物を投げ込んで、いつもの癖で壁の時計を見た。だが時計は止まっていたのだと思い出す。やはり外を見て大体の時刻を確認する他なかった。
今からでは時間がないので、飯は適当に外で食うように指示しようかと思ったが、シドニアは食事ごときのために動くような人間ではなかったと思い直して留まる。
「なぁ、昼に一旦帰ってくるから、それまで待ってろよな」
瓶と向き合ったままのシドニアにそう言った。シドニアは肩越しに振り向いて、小さく肯く。
「んじゃ、大人しくくたばってろよな、シュガーベイベー」
アンジーはシドニアにウインクをした。にこりともせずシドニアはまた肯いた。
出来るだけ早足にならないように気をつけながら玄関に向かい、一度立ち止まって部屋を振り返る。
「そうそう、鍵かけとくから、誰か来ても開けないよーにな」
そう言い残して、アンジーは部屋を出た。ドアを閉めて、鍵を回す。そんな動作の中で、瓶を覗くシドニアの背中を残像のように瞼の裏に思い描いた。なんだかんだと言って、シドニアのそういう所は子供染みていて可愛いと思う。
もし必要があれば、シドニアにちゃんと面倒を見ることが出来ればの話だが、もっと構い甲斐のあるようなペットくらい買ってやるのも良いかもしれないと思った。そうすれば、シドニアも一人の時間を退屈しなくて済むだろう。
しかし、それも孤独に弱い自分の一人よがりな考えかもしれないと思うと自嘲的な笑みが洩れた。
だが家を出る時行ってきますが言える環境というのは良いものだな、とやや陶酔気味に考える。あのドアを開ければ、いつでもシドニアがいる。そんな暮らしが出来ればなどと、珍しく朝から仕事以外のことに思考を巡らせている自分に気がついて多少の気恥ずかしさを感じた。
果たして、アンジーはドアの鍵を開ける。
がちゃがちゃと、鍵をねじる時間すらもどかしいと感じた。
時刻は昼を少し過ぎていて、多少遅れてしまった時間を申し訳なく思う。仕事に遅れそうな時とはまた違った焦りがあった。シドニアは時間に遅れたくらいで機嫌を損ねたりはしないのだが、待たせてしまうのは可哀相だ。
「悪ぃ、遅くなった」
ドアを開いて中に一歩入る。部屋はしんとしていた。物音一つなく、空気の流れもない。
「・・シドニア?」
アンジーは、外部とは遮断されたある種よどみと呼べるだろう、乾いた空気を感じる。
・・生き物の気配がなさ過ぎた。急な焦燥感が沸き上がって来て、アンジーは胸元を拳で押さえた。
ゆっくりと部屋へ向かいながら、シドニア、ともう一度名前を呼んでみる。返事はなかった。
散らかった部屋は障害物が多くて、すぐに全体を把握することが出来ない。ベッドは空だった。他に人が居そうなスペースというものはこの部屋には存在しないのではないか?
三度目の名前を呼ぼうとして、声が喉に貼りついた。出来なかった。名前を呼んだとして、もし返事がなかったら・・・・そう考えた時、急に、瞼の裏に最後に見たシドニアの小さな背中がフラッシュバックした。ありがちなことに、振り向く顔が思い出せない。
まさか出ていったのか?
机に目をやる。そして、眉をひそめた。
机の引き出しという引き出しが開けられていて、よく見ると、煙草の缶、ランプ、インクの壷から筆箱に至るまで、あらゆる「開けられそうなもの」が全て全開になっている。そして、瓶が割れていた。ヒステリックに砕け散ったガラスのかけらが濡れてキラキラと輝いている。
一瞬空き巣の被害にでも遭ったのかなどと考えて、そんな訳がないと首を振った。確かに鍵はかかっていた。鍵は・・この手で閉めたのだ。
アンジーは机の前に立ち、ガラスの破片を撫でた。不意に指先が切れて僅かな痛みが走り、それでやっと冷静になる気がした。
そして、散乱した机の上に横たわる魚の姿を見つけた。その鮮やかな青の鱗は、まだじっとりと濡れている。
何か、勘のようなものが動いた気がして、アンジーは腰を落とし机の下を覗いた。椅子をどかすと、思った通りシドニアは膝を抱えてそこにいた。
顔は真っ直ぐ前を向いていたが、暗いせいでどこを見ていたのかはよく分からない。影の指した顔に二つだけ白い目があって、それがアンジーを殺人鬼でも見るような目つきで眺めていた。
左手に何か握っている。暗くてよく見えないが、平たい、円形の・・コルクの蓋だ。
「・・開けたんだな」
そんな風に呟くと、瞬きもしないシドニアの目が僅かに反応した。困惑したような表情を浮かべる。
アンジーはそこで嫌なものを見た。シドニアの足元、手を伸ばせばすぐ届きそうな場所にガラスの破片が落ちている。何があるというわけではないが、その光景に酷い不快感を覚えた。
「シドニア、こっちに来い」
手を伸ばす。しかしシドニアは、一層身を竦めただけのようだった。
アンジーの視界に、シドニアと、ガラスの破片ばかりが入ってくる。額が汗ばむような焦燥感。
シドニアは酷く怯えているようで、これ以上刺激するわけにはいかないと思った。その代わり、アンジーは素早くガラスの破片を手に取った。
「・・埋めてくる」
そう言ってガラスの破片を片手に立ち上がる。
魚の死骸を、もう片方の手に取った。冷たい感触がシドニアの肌に似ている、と思った。
部屋を出る時、もう鍵はかけなかった。
アンジーが部屋に戻ってくると、そこには誰もいなかった。
時計が止まっていて、机の上に丁寧に蓋を閉めた品々が一直線に並べられていて、足元のガラスの破片が奇麗に一ヶ所に集められていることを除けば、以前と変わらない風景だ。
やれやれ、と呟いてアンジーは頭を掻いた。
一人でベッドに転がると、シーツがひやりと背にまとわりつく。
冷たいな、と思った。
終わり
Novel & Designed by Yui Ootsuki
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