喉元をかすめる切っ先を上体の動きだけでかわし、アンジーはそのまま跳躍をする。引く槍を追うように、空を切った身体をばねにして鬼神槍を繰り出す。元帝国兵は、首から胸元にざっくりと裂傷を負い、おおきくよろめいた。鮮血が胸当てを濡らす。
だが、その傷はまだ彼から戦闘意欲を奪ってはいない。大声で言葉にもならないことをおめきながら、兵士は長槍を大きく振った。
アンジーにはもう恐れる必要もない、鈍い動きだった。
「これで終わらせてやるぜ…!!」
鬼神槍を振り上げ、そして足を踏み出す。
その馴れきった動作に、小さな出来事が合わさる。
ひしめき合う湖面の上で、不意に激しくぶつかった舳先が足の踏み下ろし先を大きく揺らがせた。
咄嗟に体勢を立て直そうとしたが、霧の合間から射し込み湖面をぎらつかせていた陽光が、彼の平衡感覚を乱す。
かつての彼だったら、もしかしたらそれでも身を躱すことが出来たかもしれない。しかし、しばらく戦いから身を遠ざけていたことが、彼の動きを鈍らせていた。
何もかもが、悪い運命に向かって収束しているように、重なって行った。
煌めく槍の刃先が、己の胴に向かって吸い込まれるのを、アンジーは見た。
そして、灼けるような後悔を心のどこかに感じながら、暗闇の中に墜ちていった。
倒れたアンジーを目撃したヤム・クーが、瀕死の敵を湖中に薙ぎ落とした時には、船底にたっぷりと溜まるほどの血だまりが出来ていた。
次いで駆けつけたタイ・ホーが、アンジーを抱き起こした。
すぐに、アンジーの手下たちの舟が周りを取り囲む。
もう手の施しようが無いことは明らかだった。
絶望に満ちた静寂が、つい今し方まで怒号でみちていた空間を覆った。
タイ・ホーが、アンジーの名を呼ぶ声だけが、虚しく響いていた。
ヤム・クーが、まだなお固く握られている鬼神槍に手を触れたとき、奇跡のようにアンジーがうっすらと目を開いた。
さまよった眼差しが、タイ・ホーを捉えたと思うと、いつもの人なつっこい笑みが色を失った頬に浮かんだ。
「アンジー……」
「よう…しくじっちまった、ぜ……」
掠れた声が、自嘲を含んだ唇から洩れた。
「馬鹿野郎、不器用なくせに、無茶ばっかりしやがって…!」
歯を食いしばったまま言うタイ・ホーの声が聞こえていたのかどうか。ふっと緩んだ表情になって、
「でも…あんたの膝の上で逝けるんなら、それも悪くねえかも知れねえな…」
そして、眠るように、瞼を閉じかけた。
が、はっとまた目を見開き、救いを求めるような眼差しを上げた。
「けど、あいつには…おれは…」
「アンジー?」
目を見開いたまま、言葉を紡ぎかけた口もとのまま、だが胴を貫いた傷からはもう血は流れていなかった。
戦いの後始末が終わり、アンジーが殯屋に安置され、トランの城に知らせの舟が出る。
折り返す舟が城から人を乗せて戻ってきたときには、夕暮れに近い時間だった。
舟から下りたシドニアを迎えたのは、ヤム・クーだった。
しばらく二人は、ただ黙って向かい合った。苦い静寂の末、口を開いたのは、シドニアの方だった。
「本当なんだな?」
低く、抑えた声だった。
「ああ…」
ヤム・クーは、目の前の小男が、内面に抱えた感情が大きければ大きいほど、無表情になるということをよく知っていた。
ゆっくりと頷きながら、一体今日一日を、この相手がどのような思いで過ごしたのだろうかと考えた。
「アンジーさんを…巻き込むべきじゃあなかった。こんなことになっちまったのは…俺たちの、責任だ…」
「あいつは、好きで行ったんだ。あいつが決めたことだ」
「シドニア…」
ヤム・クーの横をふいと過ぎて、シドニアは歩き始めた。
「どこへ行くんだ?」
足を止めないシドニアを、ヤム・クーは慌てて追った。
「アンジーさんに、別れを言ってやらねえのか?」
肩を押さえると、シドニアは立ち止まり、振り向いてヤム・クーを見上げた。
その目を見たとき、西日にはっきりと照らし出されたその表情を見たときに、ヤム・クーは言葉を喪った。
「屍に用はない」
唾を飲み下そうとしたが、口のなかがからからに乾いていた。
「アンジーさんは、最後まで、お前のことを気にかけていたんだぜ」
懸命に、それだけ、言った。それが本当の事なのかどうか自信は無かったが、そう言わなければいけないような気がしていた。
「あいつは戻ってこなかった。」
切り落とすように、ぼそりと言う声が胸に当たった。
「戻りたくなかったわけじゃあ、ねえだろ」
「同じことだ」
答えに詰まったヤム・クーを見て、シドニアはかすかに唇を曲げて、確かに笑った。
良く知っている筈の…だがそれよりも、遙かに凄惨な笑顔だった。
ヤム・クーは、シドニアの怒りと絶望を感じた。もう、語りかける言葉などなかった。
誰も彼を救うことはできない。そう思った。
歩み去っていくシドニアの背中を見ながら、祈ることすらできず、ただ見送るしかなかったのだった。
数ヶ月後、タイ・ホーとヤム・クーの二人は、全てをカクに残したまま、北方を目指して旅立った。アンジーたち船商たちがあるいは引き受けていたかも知れない買い付けの代行がその目的だった。
レオナルドを筆頭とする商船団は、その規模を縮小し、トラン湖周辺の各地方を結ぶ貿易船運行を続けている。
シドニアを再び見た者は、だれもいない。
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